朝、お弁当のおかずにと、きんぴらごぼうを作った。
ごぼうは、母が手荷物で運んできてくれた、大分耶馬溪産の泥つきごぼう。「太いんだけど、やわらかくて美味しいの」。立派なごぼうを、3本ももってきてくれた。
たわしで軽く洗い、ささがきにする。ザッザッザッとボールに切ったごぼうを放る作業。

途中、「は!」と気がついて、まったくごぼうに気持ちが向いていないことに我ながらおののく。頭の中は、「そろそろ洗濯物が終わるかな」とか、「薄切りの豚肉が少しだけあまっていたのはどうしようか」とか、犬に加えあひるの餌のこと、そして昨日やってきた猫の餌のことなど、肝心の目の前の「ごぼう」はそっちのけだった。

171214_kiko_1.jpg毎日の料理作りのなかで、意識的に素材を見ることができたら。と、思う。

そんなことを思うようになったのは、友人である料理家の奥津典子さんの影響だ。

確かに、典子さんのアドバイスのように切ると、気持ちが通る。「呼吸を止めないように切る」「切る姿勢に気をつけて見る」「炒める素材をじっと見る」ひとつひとつの所為の細部にこそ、たいせつなものは宿るのだ。これまで、自称他称共に「せっかち」と、名乗り続けて早40数年。でも、これからでも遅くはないだろう。

171214_kiko_2.jpgきんぴらごぼうの味付けひとつとっても、味の記憶のなかのいろいろな「きんぴら」が浮かぶ。未だに「わたしにとってのきんぴら」が定まらない。切り方もときに太い短冊にしたり、斜めに切ってから細切りにしたり。味付けも「〇〇おばちゃん風」や「あっさり薄味白仕上げ」など、そのときの気分によって変わる。だからだろうか、「いつもの味」に対する憧れがある。

でも先日、ナーベラーとトマトの炊き込みごはんを作った時のこと。昔からの友人が、「あー、これこれ。きこちゃんの味がする」と言った。聞けば、何を食べても「きこちゃんの味」があるようなのだ。

「へえー」と、びっくりしてしまった。自分では気がつかないもんだなぁ。

171214_kiko_3.jpg写真は、南インドカレー。ミールスは京都のマイスター作。さすが、おいしかったです!]

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