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「マインドフルネス」という言葉が、浸透してきているようにおもいます。マインドフルネスとは、今この瞬間に起きていることに意識を向け、どんな感情でも思考でも感覚でも衝動でも、それをジャッジすることなく、ただ見守ることです。そうして、本来の自分は、それらにとらわれることのない自由で神聖な存在であることをおもいだすプロセスでもあります。特別な時間をとったり、静かに座ったりする必要はありません。いつもの日々に取り入れられるものです。この連載ではマインドフルネスに生きるヒントをシェアしていきたいとおもいます。

桜が咲き始めて、いよいよ春。春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもあります。

今回は、お別れについてちょっとかんがえてみたいとおもいます。世界的に見ると、お別れの言葉は一般的に「神の身許によくあれかし(Good bye)」「また会いましょう(See you again)」「お元気で(Farewell)」のどれかに当てはまるそうです。でも、現在こそあまり聞かなくなりましたが、日本では「さようなら」を別れの言葉にしてきました。これは、この3つのどれにも分類されないものです。

「さようなら」は「さらば」、つまり「そうであるならば」「そうでなければならないならば」が語源です。そうであるならば。ある出来事が完了したときに、いちど立ち止まって「そうであるならば」と確認し、そうしてから新しい一歩を踏み出す。その終わりをきちんと見届け、現在を見据えてそれを次につないでいく。そんな心持ちがあらわれているようです。

また、「さようなら」を「そうでなければならないならば」として見るとき、それは避けられない別れを受け入れる姿勢におもえます。別れによる悲しみや寂しさ、絶望もあるけれど、でも、そうでなければならないならば。そんなふうに、自分にわき起こる感情も受け入れる。それだけではなく、自分のもとから離れて行く人や物事を尊重し、その選択を受け入れる。そんなふうに、そこにあるすべてを内包するような、そんな感じがします。

「さようなら」。

この言葉をおもうとき、その深淵さに心が洗われるようです。なぜなら「さようなら」はいまここに立ち、その場所でそこにあるものすべてにOKを出したときに出てくる言葉のような気がするからです。

今日の一枚:

「そうであるならば」「そうでなければならないならば」。あらがわず、ただ受け入れる。それはきっと、なにか大きなものに身を委ねる、心地のいい降参です。

参考文献『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』竹内整一著/ちくま新書

>>さようならを、きちんと 後編

※著者の意向により公開後に一部加筆修正いたしました(2016.4.2)

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