高村玲子がこのカフェでアルバイトを始めたのは2年前。30代なかば、子どもと家事、幼稚園とママ会だけの毎日はとにかく気詰まりで、抜け出す口実はなんでもよかった。学芸員の夫に「わたしも働こうかな」と切り出したら、特に反対もされず、図書館の帰りによく立ち寄っていたこの店で働きはじめたのだった。

飲食店で働く楽しみは定点観測にある。時間、天気、少しずつ変わる顔ぶれ。

祐天寺という場所がらか、出勤が遅いギョーカイ人風がちらほらやってくる。エスプレッソダブルを頼む木下さんは、CMディレクター。通信会社のコマーシャルを時代劇仕立てにしたときは衣装の時代考証に手こずったとか、玲子が好きな女優のことを「猫みたいにちっちゃい人よ」と言ったりとか、たわいのない話が面白い。

よく見かけるやたらおしゃれなこの女性(名前はまだ知らない)は大手メーカー勤務だと聞いた。「プラダを着た悪魔」タイプの女上司にちがいない、と想像する。いつも忙しそうにコーヒーを頼む。40代だろうか、一部の隙もないファッションに玲子はいつも気後れしてしまう。

モーニングが終わりかける頃にあらわれる初老の男性は、ゆっくりと朝食をとったあと、静かに経済新聞を開く。現役時代はスマートなビジネスマンだったのだろう。いい腕時計をしている。スーツが似合いそうだ。

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いつもノートパソコンの画面いっぱいに料理写真をひろげている男がいる。「おいしそうですね」と声をかけたのが、カメラマンのクリハラと話すようになったきっかけだった。そもそも料理に興味があった。Facebookの写真を上手に撮りたいな、とHow to本を買ってみたこともある。男は週に何度かやってきては、撮った写真の整理をしているようだった。

「女性向け情報誌の仕事でレストランの料理ばっかり撮ってたら、いつの間にか料理専門みたいになっちゃった」のだという。

「写真は面白い」。クリハラの仕事を横目で見るようになって、そう思うようになった。クリハラが撮った老舗の女性誌のおせち料理は、お重の蒔絵とあいまって、まるで工芸品のよう。京都のカフェ特集の写真は、玲子を純喫茶の古いソファに連れていってくれる。

料理のこと、写真の話。映画や小説の話。玲子より7歳年下だというのに、好みが合うのかクリハラと話すと会話がはずむ。気の合う同級生と放課後を過ごすような楽しさがあった。

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イラスト/MIYUKI OHASHI