「いただきます」と手を合わせるとき、どんな感じがしますか? 私はあるときまでは、その料理を作ってくれた人に対してや、食材の作り手に対してありがとうの意味をこめて「いただきます」と言っていたように思います。ときには、単に習慣的に言っていたこともありました。でもいつの頃からか、もうすこしその先に目が向くようになりました。

何かを食べるということは、それはつまり、自分を生かすために何かのいのちをいただくということです。野菜であろうとくだものであろうと、魚やにわとりや牛、豚であろうと、すべて同じ生き物です。そのいのちをいただくことで、自分を生き延びさせることができています。でも、そのいのちに対して、私は対価を払うことができないのだなあと、あるときふと思いあたりました。

料理を作ってくれた人、生産者の方々、それを運搬したり、店に並べたりしてくれる方々には、お金などなんらかの形で対価を払うことができます。でも、食材そのものとなったいのちに対しては、なにもお返しできることがない。そう思ったとき、なんともいえない悲しいような、やりきれないような気持ちとともに、ありがたい気持ちがわいてきました。なんと大きな輪の中で、そのつながりの中で生かされているのだろうと、その壮大さに圧倒されもしました。

そうすると「いただきます」は、私のいのちを支えてくれているすべてのいのちに対しての感謝の気持ちの表明になりました。そして、いただいているのは、いのちだ、と思ったとき、目の前の食べ物をぞんざいに扱うのが難しくなりました。

日本には食べるときの姿勢や箸の持ち方、使い方などいろいろな細かいマナーがあります。だまって食べなさい、残さず食べなさい、肘をつかない、など子どもの頃に大人に言われた経験を持つ人も多いと思います。それらはきっと、すべきことや単なるマナーなのではなく、もともとは、食べ物となったいのちときちんと対峙した結果なのではないかと思うのです。食事を前に「いただきます」を言う文化を、形式的なものとしてではなく、その本質とともに残していきたいなあと思う今日この頃です。

今日食べたもの:にんじんの葉っぱのふりかけ

にんじんでも大根でも、葉付きの物には目がありません。野菜を1つ買ったら、もうひとつおまけで葉野菜がついてくる、という感じがするからでしょうか。にんじんの葉っぱは香りの良さを生かして、パスタソースにしたり、スープに散らしたり。

この葉っぱのふりかけ大根葉で作ることもあります。こちらもおすすめです。にんじんの葉っぱは細かく刻みます。フライパンで油を熱し、葉っぱを炒めます。途中でをぱらり。葉っぱがしんなりするまでさらに炒めます。お醤油を回しかけ、ちぎった海苔ごまを全体に混ぜてできあがりです。ごはんにかけても、まぜごはんにしても、納豆と混ぜてもおいしいふりかけです。

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