伊勢海老と地魚とズワイ蟹の会席料理に、二人の会話が弾んで…
展望温泉から帰ってきた及川はご機嫌だった。
「天然温泉の大浴場と露天風呂があって、どちらからも伊豆の海を一望できたよ。君も行ってみたら」といつもより饒舌。
夕食は伊勢海老と地魚の贅沢なお造りとズワイ蟹の姿盛り、さらにアワビの陶板焼きと、見た目にも豪華な会食だった。
蟹を食べながら、及川は北海道の毛蟹とズワイ蟹の違いを教えてくれた。
「蟹に詳しいのね」と感心する陽子。
「昔、北海道に住んでいたから」
「いつ?」
「数年前。その前は大阪や九州で仕事をしていた」
及川が転勤先の土地のことを話すなど、思ってもいなかった。
ふと、陽子は「これからも転勤が多くなるの?」と聞いた。
「うん、そのことなんだけどね」と及川は視線をそらせた。
「もし東京で仕事を続けるなら、僕との縁談を考え直したほうがいいと思う」
「転勤するの?」
「そうなるかもしれない。仕事を辞めてついてくるかどうかと悩ませるのは、もう嫌なんだ」
「…以前にも女性との間でそんなことになったの?」
「まあ、そうだね」。
及川はそのまま黙り込んだ。
枯れているとはいえ、38歳の男性が過去に女性とのことで何もないはずはない。
そう思っても陽子はフクザツな気分だった。
展望風呂の夜空のきらめきに、未来への思いを馳せて
夜の展望風呂温泉で海風を感じながら、星がまたたく夜空の美しさに、陽子はゆっくりと癒されていった。
一人だけの展望温泉に、女ざかりの40代女性が入ってきた。
親しげに話しかけてくるのは熱川館が旅情をかき立ててくれるからだろう。
「28歳だなんて、若くていいね。焦る必要もないしね」と女性。
女性は静岡でお金持ちの年輩男性にアタックされて、根負けしそうになったところを逃げてきたという。
「焦ると誰でもよくなるけど、結婚相手はこの男性の子どもが欲しいと思った人だと、お琴の師匠に言われて、考え直したというわけ」
「結婚したら子どもができるのが当たり前だと思っていたけど…」
「相手と自分の子どもの顔を想像できる?想像できたら、間違いない相手よ」。
陽子は及川の顔を思い浮かべた。
彼との子どもの顔は想像できなかった。転勤族の妻として生きていくという環境の変化もちっともリアルではなかった。
二人の子どもの顔を想像できたのは、京都旅行で喧嘩をした先輩だけ。
先輩と別れたのは、自分から先輩を振ったからだが、熱川館の展望風呂から一望できる美しい風景を、先輩ならとても素敵な表現で語ることだろう、と陽子は思った。
「先に結婚ありき、ではなく、相手ありき、ですね」
陽子の発見に、女ざかりの女性がにっこりと微笑んだ。
陽子はふと、大学の同窓会が来月開かれることを思い出した。
昔好きだった先輩が来るかもしれない。
先輩とヨリを戻したいという図々しい気持ちはないが、
大学時代に捨てた恋心の欠片を拾って、新しい恋へのきっかけを見つけることができたら、自分も変わるかもしれない。
陽子は伊豆の海へ向かって、自分が変われますように、と祈るのだった。
(テキスト/夏目かをる)
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熱川館へ婚前旅行。シャイな彼も伊豆の海と空に感嘆




