しっとりとした情緒、芸術品のような懐石料理。二人の恋の思惑が絡み合って…
部屋の窓から川べりに満開の桜が見えた。
「ほら、すごいだろう」とはしゃぐ達也。
まるで時を忘れてしまったかのように咲き誇っている飛騨古川の桜。
8年前と同じ――
「小さな囲炉裏があるんだ。風情があっていいだろう」
囲炉裏も8年前と灰汁まで同じように見えた。
あの日は確か夜にかなり冷えて、元春が火を起こそうとした。
「花冷えだね」と呟く元春の横顔が淋しげだった…
部屋には露天風呂もあり、これだけが新しい。
「ここの調度品は有形文化財に指定されているって。温泉に行く途中で見てね。僕は仕事の電話をかけるから、先に行ってて」
達也の顔に、一瞬緊張感が漂った。
仕事の邪魔をしてはいけないと絵里は部屋を出た。
『せせらぎの湯』へ向かう途中の休憩室では、ゆったりとした空間に歴史の重みを感じさせる木造のどっしりとした家具、そして柱時計が静かにたたずんでいた。
まるで時間が止まったような空間…
館内には着物を着た男女人形や動物たちなど布を使ったオブジェがさりげなく飾られていて、しっとりした風情は、昔と変わらない――
ふと絵里はタオルを忘れたことを思い出した。
急いで部屋に戻り、入り口の引き戸を開けたときだった。
電話で話す達也の声が聞こえた。
「わかっているよ、裕子。今夜彼女に僕達のことを話すつもりだから。同じ編集部内だから君もやりにくくなると思うけど、そこまで君が言うのなら…」。
達也の電話の相手は、編集部の裕子だった。
4歳年下の26歳の裕子は、次期編集長のポストを狙っている。
達也までも奪おうとしているのだ…。
庭園露天風呂のせせらぎの湯でくつろいだ絵里は、上気した頬で部屋へ戻った。
画家の達也は緊張した顔でスケッチをして、絵里が言葉をかけても無愛想な応対だった。
「わかりやすい人…」
絵里は年下男の単純さをうらやましく思う。
隠そうとしないから、女を喜ばせたり傷つかせたりする。
だから傷つく前に、防備することだって必要だ。
バーで若旦那と談笑ながら食前酒をいただき、絵里と達也は料亭の名残が残っている座敷部屋で、飛騨の山菜や飛騨牛のミニステーキ、日本海の海の幸をとりいれた懐石料理を一品一品味わった。
お酒は飛騨の地酒。熱燗で飲む。
甘さが口中に残らないところに品があり、美しい器に盛られた懐石料理とマッチする。
「もう一杯どうぞ」
絵里がお酒をつぐと、達也はますます気まずそうになった。
これから達也から別れを切り出されてつらくなるのは絵里のはずなのに、言い出しかねている達也よりも絵里のほうが優位なのは、過去の男がどこかで見守ってくれているような気がするからだと絵里は思う。
「食べ終わったら部屋の露天風呂へ一緒に入りましょうよ」
ふふふ、と小悪魔的な笑みで達也を誘う。
少し困惑したように、でもどこか嬉しそうに「いいよ」と肯く年下の男の顔を見て、絵里は八ツ三館で男から別れを言わせまいと決心した。
満開の夜桜と過去の思い出が祝福する恋の勝利
露天風呂に行灯の照明を置いて部屋の電気を消すと、湯けむりが行灯の光に照らされて絵里の白い裸体をぼおっと浮き上がらせた。
浴槽の端に花瓶に生けられた椿を乗せ、飛騨のお酒を宝石のように美しいガラスのグラスに注いで檜の香りに包まれた絵里が、達也を招く。
お湯の音に混じって、室内露天風呂の周囲にある桜の花びらがさらさらと舞い落ちるように達也の心は躍り、檜の温泉の中で絵里を抱きしめた。
寝息を立てて寝ている達也の顔は少年そのものだった。
抱き合った後で「予定が狂ったよ」とぼやいたので、わざと
「何が?」と聞いたら、
「別に」と少しすねて、それから絵里を抱きしめてから寝息を立てた。
絵里は起き上がって、小さな囲炉裏のある窓辺に腰をかけ、カーテンを少し開けた。
満開の夜桜が月の光を浴びて、煌々と輝いていた。
絵里は初めて勝利をかみしめた。
年下男だからこそ立てようとしていたが、これからは立てている素振りをしながら、主導権は私が握ろうと絵里は決めた。
8年前――この囲炉裏の前で満開の桜を眺めながら、絵里は元春から報道カメラマンとして長期間に渡って、海外で暮らすという話を打ち明けられた。
絵里は取り乱して号泣したが、元春の決意は変わらなかった。
元春とはそれきりになった。
生き方の違いから、好きな男と別れるのは仕方がない。
でもそれ以外のことなら、別れを回避することができるかもしれない、と絵里は思う。
八ツ三館からの景色は、絵里の心に桜色の輝きをもたらした。
満開の夜桜は元春からのギフトね、と過去の男に感謝した。
(テキスト/夏目かをる)
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8年前に恋人と訪れた八ツ三館に、年下男が背伸びして予約




